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2013/7/22 22:07 [ 4352hit ] [  新着情報  ]
小国郷の「福銭と富くじ」の本当にあった不思議なお話

昔、江戸時代の終頃、江戸幕府や全国各藩は、多くの寺社で盛んに「富くじ」が行われました。

この小国郷でも、文政元年(1818年)岳の湯の明礬で財を築いた御山支配役後藤助左衛門が、弟太郎兵衛を講元に小国郷の総鎮守両神社で「富くじ」を行うことを小国郡代に願い出て許可されました。
これにより、小国郷の「富くじ」も、年ごとに盛んになり、北里柴三郎が生まれペリーが来航した嘉永から安政まで、10年間に76回も富くじが行われました。

 

 

その頃、小国郷の中心「宮原町」は、米・酒・醤油・油・古着・薬・鍛冶・藍・海産物などを商う店が軒を並べ、小国・久住(肥後領)の中心宿場として栄えました。

 

その商家の中に、湊屋(みなとや)という橋本順左衛門の営む酒屋がありました。順左衛門は、毎朝近くのけやき水源で、心を静め体を清めて、お祀りされている「水神様」に自然の恵みを感謝し、両神社で天下の太平と商売繁盛を祈ることを朝の勤めとしていました。夕日の沈む頃になると、湊屋の裏にある鏡ヶ池にお祀りされている「恵比寿様」に、その日の商いを報告しました。

そうしているうちに、湊屋は津江の「鯛生金山」や鹿児島の「菱刈」で金を探し当て、大金持ちになりました。周囲の人々は「湊屋が毎日三社参りをしたおかげ様だ」と、思いました。

 

ある朝方、順左衛門は夢を見ました。それは、いつもお参りしているけやき水源に、小舟が流れに逆らい入っていくという、不思議な夢でした。この夢を吉兆と感じた順左衛門は、「富くじ」を買い、見事に一番くじを引き当てました。

その後、湊屋は益々繁盛しましたが、この幸運を一人占めには出来ないと、惣庄屋北里伝兵衛のいる北里へ通じる横町坂や、溝口道路を石畳にし、けやき水源に入る道も石畳にしました。人々は石畳となった道は「富くじの道」と呼びました。

 

湊屋の「おめでたい夢」の話を聞いた郷内の城尾村市郎右衛門は、毎朝、四キロ余りの道を、一年あまり通い続けて「一番くじ」を願いました。湊屋の三社まいりをまねて、「水神様」・「両神社」・「恵比寿様」に祈り続けました。

その甲斐あって、ある朝、夢一杯に広がる湧水に当りくじを予感しました。市郎右衛門の願いは実り、両神社富くじと久住宮富くじに四回、一番くじを引き当てました。

 

市郎右衛門も余りの招運に感激して、湊屋にならい、福坂橋脇戸橋を架け直し、寺社に寄進し、市原までの道を石畳にしました。(その一部は今も残っています)

明治維新となり富くじは無くなりましたが、けやき水源の水神様と両神社は、「幸運を呼ぶ神様」として、恵比寿様は「福を富ます神様」として、小国郷の人たちの心に残り続けています。

 

その後、湊屋は小国郷を襲ったこの巳年の大水害に、宮原の惨状を憂い、両神社前の道を高め、川岸に堤防を築き今に残っています。

 

 

 

時が流れ、明治24年12月28日、餅つきの残り火から宮原の170軒余りを焼き尽くした火災で湊屋も焼けてしまいました。その頃、湊屋が持っていたという大量の金塊は、火事で溶けてしまったのか全て消えていました。

今でも、湊屋の蔵跡を掘ってみたら金塊が出てくるのではないか、という話が残っています。

 

 

 

(本文:小国町商工会  編集:松崎みお)

 

掲載写真は以下から引用

http://www.kininaru-k.jp/2012/movie/1ch/1ch_120531.html

 

 

福運三社参りの様子
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福銭
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